「宿命中殺お茶会」ありがとうございました


先日、7/1に「宿命中殺お茶会」をトナカイノニカイで開催しました。
梅雨が明けてしまい、お暑い中ご参加いただきました皆様本当にありがとうございました。

初めての「お茶会」を無事に終えらえたのは、ひとえにコラボして下さった廣田璃波先生とご参加くださった皆様のお蔭でした。感謝しています。
早々、ご感想も寄せていただきありがとうございました。

そもそも、算命学を学びながら、自分が「宿命中殺」と知っても、よくわからない、自覚出来ないという状態が長くて、今でもほんとうのところはよくわからないのだろうと思います。

わからないもの、自覚するのがむずかしい、ないものについて語るのは、なかなか厳しいです。お茶会の間は、楽しさや、気づきや、参加者の皆様の貴重なお話しは有難く、開催できて良かったと思っています。

それでも、時間とともに、もやもやしたものが残りました。
廣田先生が、理性的にしっかりと会を導き進行させて下さったので、私は調舒星中殺としての立場から、予定調和的なまとめより、逸脱して行く中殺的な発言を心がけたつもりですし、事実、調舒星中殺は逸脱していくものだなと改めて気がつかされもしました。
そして、話しが長い調舒星も発動していましたね。
至らなさへの反省は今後に活かすしかないと自戒していますが、また「宿命中殺お茶会」を開催出来るかは、今のところ考えられないです。

やはり、センシティブな、この場に書けないような、「お茶会」を共有して下った皆様との一期一会のあの場のお話しでいいんだろうなといまは考えています。
そして、家族のお話、「因習」とか自分には関係ない顔して生きていますが、私の背景にも脈々とある家族のお話は存在しているんだろうなと思います。
一人では産まれて来られない訳だし、必ずつながっている命や家族がありますね。

家系のカラーとは異なる所で、自分として生きるのは私の星の在り方でしょうし、娘たちは娘たちで私の作った家族のカラーではない自分たちを生きる人達なので、せめて、共に生きるいまを楽しんだり、笑いあって精一杯生きるしかないよねと思います。

まあ、調舒星に憂鬱はデフォルトであると私の師である天海玉紀先生も書かれています
もやもやして切なくなり、何もかもに絶望した気分には簡単に成れる。
でもそこにずっと留まれない自分もいます。

「持ってないものを求めて」いろいろやってみて、自分の中で持てない者である自分がイヤで、受け入れたくなくてもがいて、「こんな自分じゃいやだ」を生き辛さとして、世の中や、他者(親も含めて)に投げかけてみても、何も始まらなかった気はしています。

こだわらず、達観したいい人として生きられたらなとも思ったけれど、努力もしてみたけれど、委ねることが苦手な自我の強さは何ともしがたく。
どっちつかずで迷い続けられるほど、若くもなく。
玉紀先生に突きつけてもらえたのは、自分を引き受けて自分として生きるか、自分に言い訳けし続けるのか。 
自分の人生をやるのか、やらないのかというとってもシンプルな問いかけだったと思います。

それは身強とか、身弱とか、中殺あるとか無いとか関係ない、人としてあなたは自分の命を自分として生きますか?ということだと思っています。
そのために、私は、まだまだ道の始まりに立ったばかりの「算命学」をこれからも学んで
深めていくことが自分の選んだ私としての、自分として生きることだと、「宿命中殺お茶会」を終えて実感しています。

毎週木曜日昼11:00から16:30、南阿佐ヶ谷ウラナイ・トナカイに座っています
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