望もうが拒もうが、8ハウス的世界は、突然向こうからやってきて、私達を呑み込んで行こうとする。それは自分がコントロールできる範疇を、軽々と超えて行く。 このひと月が、そんなことを実感する日々で、とても濃厚でありながら、どこかで実感を失いやすく、当たり前の自分の日常が流されてしまい、気がついた時に、どこに戻ればいいのか少し途方にくれた。 人にもまれてると、自分の火星を実感させられることが多くなるなと思いつつ、8ハウス的体験の中では、コントロール不可だからこそ、多くを感じ取り、怒りや悲しみや寂しさに自分として内面が大忙しになった。 それを外に吐き出したい気持ちもあるけれど、調舒星的毒舌になるのは、望ましくない気分だったので、自分を楽しませたり、リラックスさせることを選ぼうとした時に、美味しいものや、好きなものに触れるは有効だなと、改めて実感した。 占いの世界を得てから、周囲の人や物事の流れを、コントロールすることは出来ないと、本当の意味でわかってから、生きるのは楽になった。 占いを学ぶ以前の私は、もっと怒っていた。 思うようにならない周囲の人や物事に抗うことに、疲弊していたのかもしれない。 それまでのやり方や、生き方が行き詰ったのなら、それは、そのこだやりや手段や、そういう考え方、世界の見つめ方を改めたり、手放す時ということだ。 それは、一旦自分を、深い絶望や、苦しみの感情の海の底に沈める行為だけど、その感情の先へ辿り着いた時に、こころはぐっと楽になるし、タフになる。 海底から海面に顔を出せるようになった時に、世界や、周囲が違って見えるのは、大きな希望や喜びだったりすると知ることができたのも、生きる喜びや醍醐味なのだ。 40代で、会社に行くのが辛くて、自分に悩んで、また10代の頃のように、自分に惑うのか?と思った時に、コスパを求めて占いに答えて欲しかったけれど、占いを学ぶ過程で、改めて自分に惑い、自分を発見することの意味の深さや、味わいは、10代の生きる切なさとはまた違う意味を、私に与えてくれたので、惑いながら生きるが私の、人生の道連れとなるワードなのだろう。 5月の爽やかさを感じながら、散歩をしていて、普段あまり、妻とは、母とはという役割意識に縛られていない自分が、ふともう義父母が逝ってしまったら、私は「お嫁さん」的役割から解放されたんだなということが意識されて、自由さ...
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