最後の方の会話が互いに禅問答みたいになって
かみ合わなかったのですが、それでいいんだと
すごく素直に感じられたんですよね。
自分の心の働き方のクセとして、内的葛藤は常なので、その心のモヤモヤを晴らしたいに
専念してしまうと生産的な日常から離れてしまうので、モヤモヤを「解決してスッキリしたい」に適した問いと、そうではない問いがあるということが、自分の中で分かっていれば、問題ないんだなと。
禅問答みたいに、わからないモヤモヤした問いに、自分で答えを見つけるからこそ、価値のあることや
自分の中にある、見過ごせない違和感をスルーせず、見つめていかないといけない問いもある。
当然、それ、グダグダ悩んでいても、時間の無駄ですからという問いもある。
悩んでいるふりをして、答えを出したくない時も人生にはありますしね。
でも、私はもうかなり長い時間生きているので、
自分のしくみの中で、時間をかけて向き合うことと、
即断即決するよということと
しっかりと答えを出すために、ぼんやり悩むのではなく
きちんと考えるが出来るように思考して行くよを
切り分けられるようになってきたなぁと、自分の中で実感した瞬間だったのです。
答えをだしたくないことをグダグダと悩むふりを続けているのが、一番もったいないよね!
今の私にとっては時間は大切なリソースなので
考える時は答えを導くぞという意志を大事にしている。
それとは別に禅問答的な、生きている間に解決できるかはわからないけれど、常日頃から見つめて、バージョンアップを試みている問いもある。
年をとって、自分がいろいろと清濁併せて吞み込めるようになると、
若い頃のように真っすぐに一本のことに捉われず生きられる、自由度が増えたことが
本当に喜ばしいですね。
若い頃の自分がピュアじゃないと今の私を批判してくると思うが、私は理想主義的人間だけども、もう若い私をいなせる。
若さの価値を年と共に、痛感していたのですが、うん、若いからこそ出来ることは沢山ある。
でも最近は年を数えるのは、自分から逃げずに、生きれれば、自分がそれなりに
練れてくる面白さに辿りつけるかも知れないという気配もある。
簡単に折れず、複雑でわかりずらい、練れた大人であることを諦めてはいけない。
スッキリと分かりやすいだけでは、味わえないものを楽しもう。