正解のないこと

 

数年前から”風の時代”がやって来ると言われ、
西洋占星術で言うところのの天体の影響で時代の大きな変わり目に生きていると、読んだり聞いたりしてきていましたが、自分の実感はまだつかめないまま、情報を受け止めていました。

でも、コロナがやって来て、ワクチンを接種するかどうか、接種するならどういう選択肢があるのかなど、自分にとっての選択はどんどん細分化、枝分かれしていき、何が正しくてという答えはない。正解のない問題を、当事者として選択することを迫られているということを痛感しました。

ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにして、更に、何が自分の判断の基準となっているのか?自分はどの場所からどの視点で、受け止めて何が正しいのかの正解がないところに、自分としての判断を持たないと、これから先を生きるのは、難しいのだということを、私に迫ってくることが、風の時代なんだなと感じ始めました。

それまでだって、自分で考える、判断するは、生きていれば当然ありました。
でも、それは自分の個としての問題点や悩みにしか過ぎず、私の小さな選択や判断は世界に
反映されないという閉じた、安定の中にいることが許されていたんだなと思います。

風の時代は、私たち一人一人が、世界の問題の当事者として、厳しい判断にさらされて行く時代なのかも知れません。
文字通り風に当たり続けて行くタフさや、体力や、上手く風をよける工夫が出来る知力が必要なのかなと思います。

それでも、急に何が出来る訳でもなく、日々自分の出来ることを続けるしかないし、
一番やりたいことに、ちゃんと時間を使いたいと切実に思います。

映画「ドライブ・マイ・カー」をウクライナ侵攻の前に観ました。長いと聞いていたので、それなら映画館で観なくちゃと思い。

ロードムービーなら、尚更に。

見終わった時より、時間経過と共に、この映画については考えた。
この映画の中で主人公(西島秀俊)が「正しく傷ついておけば良かった」というセリフがあるんだけど、本当に過不足なく、正しく傷つくということひとつでも、人それぞれに難しくて。

どう傷つけばいいのかも正解はない。
他者がジャッジすることでもなく、本人にしか分からないこと。

映画のセリフは傷ついたのに、見て見ぬふりをした、向き合わなかったという意味での「正しく傷ついておけば良かった」なんだと私は理解したけれど、その後で正しく傷つくって何だろうと、あれこれ考えて、それはやはり正解のないことだと思った。

私はますます正解のない世界を、生きていくんだなと、悲しみと同じだけの気ままさを感じながら、自分がやり続けられることをやって行こう!と思う。