区切りのない夜



今日上野公園に行って、目に緑が入って来ただけで、なんだか嬉しく癒された気分。

この夏の酷暑のせいで、全く外をぶらつくみたいな気力を奪われていた。

かと言って、部屋の中でクーラーがないと生きていけないという感じの閉塞感も感じていた。


昨日の8/30日は

庚申の日

庚申の月

癸卯の年で

私にはちょっと暑苦しい、律音が重なっている日だったけれど、家の中で、代り映えのない日常を過ごしている分には特に何もという1日でした。

 ただこの庚申の月になって、貫索星の月運ですが、改めて自分を実感することが多かったなと思えます。

「感情」「好き嫌い」で生きていると言われて、笑ってしまうくらい、そうですね!と答えるしかなくて、それは調舒星ですからと内心思っていた。

少し前にあるコミュニティで、物販会も兼ねていたオフ会があって、数年ぶりの懐かしさもあり参加してみた時に、お愛想で、何か買うべきかなと何度も自問して、対象商品をつぶさに眺めてみたけれど、どうしても私の中の好き嫌いといか、欲しいと思わないものは買えないという判断基準が揺るがず、何も買わずに帰宅して、自分のケチっぷりをおおいに反省したんだけれど、もうこの年まで生きてきて、余計なものは要らないが、揺るがなかったし、それは本当に欲しい人の元に届けられた方がいいしと自分を説得した。

そして貫索星の月の今月になって、改めて、自分は好みのうるさい人間だったじゃないかという当たり前に立ち返った。

最近、少し自分として進化して、人として丸くなったのでは?と思っていたんですが、そういう部分もあるにはある、かなりどうでもいいことは手放してきたはず。

それでもやっぱり私は、基本は、自分の好みにうるさいタイプなんだは、全く変わらないと思い知らされた。

吟味してしまう性質があるのですが、実は何かを選んでいる時は、もっと本能的なので、

吟味してしまうのは、私的には、ノーであるということだったよなぁを思い出した夏だった。

結局、理性がいくら説得してきても、自分の素早い好みへの判断とか、直観的なものの方が

揺るがずにある。そういう自分を否定して、そういう傾向を薄めようと努めた時期もあったけれど、結局、原点回帰していくんだなーと他人事のように、自分を眺めています。

曲がっているものを、一生懸命真っすぐに伸ばそうと試みてきたけれど、結局、また元の曲がった生えかたに癖毛が戻っていくような気分です。

まぁ赤ん坊の頃から、疳の虫の強い育てづらい子供だったと言われてきて、それから思えば長い歳月をかけて、ずいぶんと私なりには落ち着いてきたんじゃないと自分なりに思うので、気難しさや、好みへのこだわりは、きっとこれからも私が携えていく、私の持ち物ですねと思う律音のひと月。

家族の生活習慣が変化して行き、私の個としての自由度が上がって行くのは、喜びでもあり、寂しさでもある。

そして私は自分の生活パターンを家族を基準に作ってきたので、急に自分のリズムでといわれてもなと途方に暮れてる。いろいろ試みて、整えている途中だけれど、自分まかせにするとすぐ、夜の区切りを忘れそうになり、どこで、今日を終わりにして、眠りにつくのかを見失いそう。つくづく私が無事に健康にここまで暮らせてこれたのは、環境に家族に支えられて来たと気が付く有様。


家族という他者を管理することで、自分もその管理下で、それなりにまっとうに暮らせていただけで、いま、自分で自分を管理していきたいと求めながら、自己管理はなかなかハードルが高いなと思いながら、毎日を過ごしています。