こうあるべきから解放されて


先日、北海道に暮らす妹が、実家の母のご機嫌伺いで、実家に1週間近く滞在していた時に、私の家にも北海道の美味しいものをお土産に遊びに来てくれて、約1年ぶりに再会して、二人でおもっいっきりお喋りしました。



 

 私は子丑天中殺グループの生まれで、妹は戌亥天中殺グループの生まれで、二人とも見事に

親のカラーとは異なる人生を、それぞれに生きて、互いに50歳を過ぎて、それぞれの個性を含めた、その人らしさにやっと出会って、お互いの違いを含めて、受容しあい、会話を成り立たせることが出来るようになったなぁとしみじみと思えました。

それは、母の意向とか、母に認められたいという姉妹間の競い合いを意識するのではなくても、なんとはなしに、母を中心にしてしか、お互いを見て来なかった気がします。

私達の間にはいつも母がいた気がしてしまう。

私から見たら妹は、母の自慢のお気に入りの娘で、私自身は「出来損ない」の娘というスタンスだった。

でも妹から見たら姉である私は、母の心配を含めて、いつもその関心を寄せられていたと。

妹が、家族の中で生き残るアプローチは、「いい子」であることだったんだなと、悲しみも含めて理解した。

一方で私は、まったく親から理解されない、手のかかる「出来損ない」というポジションで抑圧と戦っていた。

2人で話していて、12歳の時には私は生きる意欲を奪われていたし、妹は12歳で母を諦めたと語っていた。

諦めてなお、娘としての責任や、人としての他者へのポスピタリティを貫けるのは、妹が牽牛星が効いていて、自らを落とさない。高齢の母に尽くしているのも、母のためではなく、自分が後悔しないためだと言い切っていた。

一方の私は、「もう来るな!」と全くもって理不尽に、何が気に入らなかったのか、その時の機嫌に任せていい放った母の言葉をこれ幸いと、コロナ以降この4年間、顔を合わせてない。

私はずっとお前が変わり者だからという理由で「お前が気に入らない!」と言い続ける母を、娘だからと受け止めようとして来たが、もう来るなと言われたその時に、溜めていたコップが溢れてしまったように、限界を超えてしまったので、生まれて初めて、自分の母親を「クソババア」と心の底から思えたので、母親への執着を手放せたのだ。やっと母を諦めることが出来た。

妹は12歳で諦めていて、諦めたなりの親子の付き合いを、人として全うできる形でやり続けて来ていて、同じ調舒星の女だけれど、牽牛や玉堂が効いていると、こうも違うのかと頭が下がる。諦めてもなお母を好きなんだろうな。

私は、諦めて、明らかに母を見つめ返した時、好きとは言えない自分をやっと受け入れたんだな。親子でも、長い歳月の間、お前が気に入らないという振る舞いの相手を好きでいられるほど私は寛容ではないのだな。でも憎んでもいないし、嫌いでもない、もっと平坦な、概念化してしまった母親の気がする。生身の母はとても遠くなってしまった。


それでも、私達は、なんとか実家から脱出して、自分なりの家庭を築いて、それぞれが求める安心で安全な場を自分なりに維持管理してきた。私達は共に庚の女で、山羊座の女だなぁを共に認め合えるところまで生きて、悲しみや得られなかったものの意味は、それぞれに異なるし、欲しかったものもきっと違うのだけれど、自分なりに、実家とは違うカラーの、「私の王国」が欲しかったのは、一緒だよねということを確認した。

私だけが、闘っていた訳ではなく、私だけが悲しみを連れていた訳でもなく、あなたにはあなたの闘いと、悲しみと淋しさがあると知れたことは、わかったことは、生きる豊かさかもしれない。

お互いの幸せの在り方や、お互いの悲しみを、少しわかちあえる所まで、生きてみて、年を重ねるのことでの救いもあると実感している。

そして、きっとこんなことを分かち合える存在もこの世界には、彼女だけなのかもしれないと、妹が自分なりに生きて、豊かで優しい人に成長するためには、それだけのプロセスを経て来たのかと思うと、私は自分に精一杯で、何もフォローしてあげられない、むしろを私がたくさん彼女に助けてもらってきて歳月に、気がついて、彼女が帰って行った後、少し泣いてしまった。

早く大人になるしかなかった妹と、いつまでもガキのままで、騒いでいた私では、成長のふり幅も違って当然だけれど、私が本質的に子供なので、私の周りには、存在として年齢に関係なく、大人な魂の人がちゃんと助けてくれているなと、改めて思う今日この頃だ。

「ねばならない」

「こうあるべき」

という縛りのキツイ家庭から、脱出できた私達は、私たちなりの役割があるが、その家を背負って生きてる弟が一番堪えているかもしれないと、姉二人は不憫に思うよ。


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