8月3日(日)に「揺月の会」vol.8を開催します。
「揺月の会」のテーマは、生月中殺の皆さまと集い、語り合うことです。
今回は無料フリートーク会です。詳細はこちらへ
占いの世界に入ってから、宿命中殺や異常干支などの偏りのある人は、無理に「普通」を求めない事という、メッセージと、はみ出さず、いい人とか他者のためにとか、我を出さず世の中の中庸に準じて行けというメッセージを両方受け取ってきた。
テーゼとアンチテーゼでしょうか。
どっちがテーゼだ?
天邪鬼な私は、0か100みたいな言われ方だなとうっすらと感じながら、私も、偏りのある人は、枠内で生きる人とは、違った役割があるのかなという側に立っていたと思います。
宿命中殺はずっともやもやした人達という言われ方も、受け止めて来ました。事実もやもやして生き続けてきたから。
私の周囲の、私を受け入れてくれている人たちは、みんな私を変わり者と思っている。
娘なんて、普通にしていて、変わり者なんだから、お得だよねみたいなことを言う。
娘は他人と違うことを自分に求めていく努力を必要としていると。言い替えたらどう自分の個性を立たせていくかを考えてしまうと言っていた。
そんなの、私だって同じですよ。私だって自分をどう立たせていくかに、悪戦苦闘してきたプロセスがあります。
私が「普通」という言葉に抵抗があるのは、みんなひとりひとりの「普通」は固有のものなのではないかという疑いが、普通と違うと子供の頃から、投げかけるられる度にあったから。私から見たら、あなただって「普通」ではないですよと。
「普通」なんてないと、ひとりひとりの人と向きあう度に思うから。それはぐっとその人に寄って見ているから、細部が際立つからとも今はわかる。
そんな無いものに、具体性が見えないものに、自分を添わせようと、無駄に試行錯誤したから。
でも、もっと視線を引いてみたら、多数派と少数派という表現は出来るのだろう。
少数派でいたくないなという思いが私の中には、かなり長い時間あったから。
「みんな」の仲間に入れて欲しいなという渇望があったから、自分を均す努力や、みんなに寄せた発言を心がけたりしたのだ。そうやって自分としては、全方位的に気を配って振る舞っているつもりなのに、気がつくとみんなから浮いている自分に、大いに傷つくという繰り返しの日々を生きてた気がする。
何より、自分が「変わっている」を受け入れたくないという、心の叫びがあった。
「変わっている人は変わっているを売りに出来ていいね!」という皮肉をどうして、受け止めなくちゃならないのか?とも思っていた。
自分を知るは大事だれど、自分を傷つける概念を受け入れる必要はないのでは?
と思う一方で、明らかに見つめようとしないで、逃げ出すのもイヤだという葛藤を、学びながら抱えていたと思う。
でも、それは私が越えていかないと行けない課題だろうなと、占いを学び始めた時に感じていた。
クライアントの方が、宿命中殺と知って楽になったとか、そうだったのかとわかってスッキリしたとフィードバックしてくださる度に、なかなかスッキリしない私が残された。
でもそのスッキリしないが、占いを学び続けて来たモチベーションだったのだろうと、思える。
だから、変わっているとか、少数派であるということは一旦横に置いて、自分という個性をどう機能させていくかを考えていくとしたら、それは、誰だろうと同じ苦しさや試行錯誤は当然あるということです。
自分の用い方を知るは、どんな人にとっても大切なことです。
生きるのがイヤだった頃は、何故生きるのか?と思っていた。
生き抜こうと決めた時から、どう生きるのかがテーマになった。
やはり、どう生きるのかを、楽しく実験的に試みて行きたいから。
道具などで考えれば、すぐわかることですが、機能が多いほど、説明書は複雑になる。
シンプルな機能なほど、簡単に用いられる。
自分がこんがらかっている人は、複雑な説明書になっているということだ。
自分への理解が時間がかかる。私もそういうタイプだと思う。
だから、機能が少しいびつだったり、とがっていたり、特殊性が強かったら、それについて学ぶことや、攻略法を探っていくは重要だと思える。結局そのプロセスが、自分らしさを生む道のりでもあるから。
私は無駄に悩み疲弊するという時期もあった。なかなか決断に到れないから、立ちつくす時間も必要だ。
でも、今は自分に対してシンプルになることが、有効だなと思っている。
私自身が自分をシンプルに表明したら、それにふさわしい世界が訪れるということが、実感できるようになったから。
そして、そのことを鑑定後にクライアントさんから、「ナチュラルに、自分はこういう人だと表明したら、それにふさわしい結果がやってきた」という報告をいただくと、本当に嬉しい。
結局、自分を難しく複雑にすると、人生の難易度は上がってしまうと思う。
自分に素直に生きようという表現は、今では誤解を生みそうですが、自分自身のこじれや、からまりを手放して、自分の欲求や思いにまず忠実になってみようが私としての真意。
他人や世の中と自分から離れて調和しても、楽しくないし、生命力は奪われていく。
まず、自分と手を取ること。この自分を受け入れること。それが出来るとこの私でも気持ち良く生きられるじゃないと知ると、ホントに世界は面白くなっていくと、私は実感しています。
こういう気持ちを前提にして、8/3の「揺月の会」フリートーク会を楽しみに」しています。
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