あちらとこちらのあわい

4/12のイベント参加の記事

をやっとアップ出来ました。

当日、参加者の先生方との打ち上げに参加するゆとりも無く、夜にzoom参加の予定があったので新宿の街を後にしました。

眠気と不思議の海で泳いだ疲れを抱えながら、zoom参加している途中で、入院中の義母の容態が急変したと階下で叫んでいる夫の声に応えて、すぐzoomを退席して、義母の入院している病院へと向かいました。

そして長い夜を迎え、翌日曜の朝に、家族が皆、集まるのを待って、義母は逝きました。

病院から呼び出されて、逝くまで、義母の意識が戻ることは無かった。

入院してから、およそ6週間、あっという間じゃないか。という感じしかないのですが、

びっくりするくらい、あれよあれよと悪くなり、逝ってしまった。

なんだか実感がなく、本人が一番びっくりしているかもしれない。最後に会話した時、なんだか心臓が悪いんですってねって、他人事みたいに言っていた。


この土曜日の夜と日曜日の半日で、私は、もうボロボロで、この年で、仮眠数時間で過ごした後に、どれだけのダメージを受けるのかを、実感する1週間だった気がします。

花が大好きで、狭い庭でいつも何か、育てていた人に、咲いた桜の動画を、喜ばせたくて病室で見せても、ほとんど無反応で、ああ、もうそれどころではないところまで、来てしまっているんだなと実感していても、まだ、もう少し時間はあるのかなと思っていた。

義母の息子達は、そんな簡単に母親が逝くとは思わず、長期療養を見越してあれこれ、相談して、それぞれの価値をすり合わせて、看取るまでの方向性を話し合っていたが、そんな時間も与えられず、ハラハラして、ひとつひとつの段階に心を揺さぶられながら、最後の2週間は展開が早かったと、過ぎてみるとわかる。

でもその渦中は、まだまだだと、みんな思っていた。

そう思いたかっただけなのかもしれないが、私も、何も不安を感じず、イベントに参加して、夜も予定があり、と通常の活動生活の中にいたのです。

義母の息子達が、長期療養を覚悟しつつ、6月の誕生日は迎えかれるだろうか?。夏は越せないかなと考えていたけれど、想定よりもずっと早かった。

口癖のように、みんなに迷惑かけたくないと言っていたのを、しっかりと全うした気がする。わずか6週間で最後のステージを駆け抜けてしまった。

義父を送ってからもう15年くらいが経過していたので、いろいろな事を忘れていた。

この6週間で、病院関係者、葬儀関係者、親族という人間関係にもまれて、忘れていた自分の激しさや、結局、誰も口を開かない場面で、口火を切らないといけない役割とか、身近な者に本当に堅物!と言われたりと。

自分を、改めて思い知らされる場面に、幾つも遭遇した。

平時ではない、家族にとっての一大事みたいな局面で、忘れたつもりだった、自分の側面が、立ち上がってくるという日々だった気がする。

そしてあちらとこちらのあわいが、どんどん狭まって、迫って来ている気がしている。

次は自分かもしれなし、夫かもしれない。いや私の母が、いま切実な時を刻んでいる。

そして、多くの人にもまれる体験の中で、改めて、私はここまできても、みんなの側には行けないなーと、知るのだ。

みんなと反応や、行動が異なるところに生きているみたいだを、痛感する。

平時では忌み嫌われても、それは今となっては良さでもあり、臨時的に有難がられる要素でもある。

生きていても、みんなとわたし、あちらとこちらのあわいを生きているんだなーと。

そんな私に、いじわるすることも、批判的な言葉を投げつけるでもなく、言っても仕方ないと諦めていたかもしれないが、ただ、私をそのまま受け入れてくれた義母に、心から感謝している。

そして最後に石門天将らしく、多くの人との関わりがあった人生だったということが、改めてクローズアップされて、とてもマネできませんと、思い至る。

寒暖の差が激しい今年は、火葬場が混みあっていて、葬儀は一昨日の土曜日だった。

少し時間があったので、体調を整えて参列することが出来たのは、有難かった。

4/12の前に逝っていたら、イベントには参加出来なかったなと思うと、私の活動なんて全く知らない義母だが、どこかで、応援してくれているのかもと、生き残っている者の特権で自分の都合のいいように解釈させてもらおう。

出来ることを、出来るうちに、先延ばさず今日からまた、始めて行きます。