母と娘ー私の宿命中殺考②

ソードのエースに見える
数年前の冬に、妹の家で妹の夫が亡くなり、雪の北海道に私と母と弟で駆けつけ1週間を妹の家で妹とその子供達と過ごした。

大人に成って母と私達きょうだい3人がひとつの空間に1週間も共にいるなんてことは無かった。
お互いの連れ合いもその場にいないから、とても原始的な母ときょうだいとして向き合ってしまった。

そして、帰る頃には、私は母と弟と口も聞きたくないほど彼らに辟易としていた。本当にこれで縁が切れてもいいなと何度も思った。
それでも、つらい出来事の中で、年老いた母をそれ以上痛めつけたくはなかった。

そして、私の妄想?幻想?はやっと消えた。
どう努力してみても、母は私を褒めたりしない。それが出来たならじゃあ次はこれと私にとっては無茶ぶりとしか思えない要求をしてくるだけだ。

私にとっての全力の、渾身の努力は彼女の中では当然のこととして、取り立てて褒めたり
、労ったりには値しないとはっきりと知らされた。

更に人は相手によってこうも態度を変えるのかも、見せつけられた。
弟には何も要求しないのに、私にばかりワガママを言う。
妹は娘だから甘えているのと言っていたが、こいつには無理は言えるがこの子には言えないと言う、長年の関係性の優劣を痛いほど実感した。

求めても得られるばすのないものを私は求め続けていたんだなと知った。
自分軸ではない、他者評価で生きようと苦しいけれど、母のいいね!が欲しかった。
でも、それはもらえないと知ると共に、そこまでして手にいれるいいね!なのかと
やっと疑えるようになった。

と言うよりは、あなたのいいね!なんか
もう私は必要ないとやっと思えるに至ってた。
その旅のあと、私には時間が必要だった。ひさしぶりに人に痛めつけられたので回復には
時間を要した。

その旅の経験が、私を占いを学ぶ事にいっそう走らせた。

母と離れていると、もう会わなくていいと思う。
でも、面とむかって決別できる訳でもなく、久しぶりに会えば憎まれ口も仕方ないかと許す気持ちにもなり、もう私の心は寄り沿ってはあげられないし、父が死んでから、ずっと母を少しでも幸せにしてあげたいと思っていたが、子供は親を幸せには出来ないというか、誰も母を幸せにはもう出来ないと悟った。

そう、頭も心も充分に理解しているのに、母を捨てきれない自分がずっといた。
でも、もう母との人生を生きる必要はないと、今捨てられないと私はダメだなと「ラプンツェル」が教えてくれた。

母に分かってもらえる枠組みの中で頑張り、自分をどんどん薄めていき、自分の言葉で話す事をかなり放棄していた。対社会的に。

それでも、こんなに頑張っても溶け込めないかという敗北感もいっぱいだった。
浮いてしまう自分は子供だったからとか、社会性がなったからとか、忍耐が足りないとかそういう事では解決しないらしいとやっとぼんやりと気がついた。

そして、調舒星中殺の自分を知るのですが、その「宿命中殺者」であることに傷つくよりは、人生って不思議だ。
求めれば、それなりの納得の行く答えに辿り着くという驚き。

母を心の中から捨て去り、人マネのいい人であることをやめようと決めて、やっと占い師としての自分をもっと育てて行こうと決心できたのが、私がラプンツェルのカードを立て続けにひいた時でした。

インナーチャイルドカードの世界があったからこそです。