母と娘ー私の宿命中殺考①


私は空を見てぼんやりしているのが好き。
でも、若い頃は特に十代はうつむいて歩くことが多かった。

この世のどこに拠り所を求めたらいいかわからなくて。私は調舒星中殺で自分で自分にアレルギーが激しかった。

現実より物語が好きだった。本を読んで、音楽聴いて、映画やドラマや芸術的なモノをただ愛好して、自分は生産性の無い人間としていつか野垂れ死にしてもいいかと思う調舒星だ。

でも、現実には生き続けている。雨露しのげる家の中で、食べる事に困らず、私のためによかれと思う親の愛情に真綿で首を締められながら、死なないけれど、本当には生きてもいず、わかりあえない親に依存している事にも耐えられず、でも親を捨ててこの世の中で一人で新しく始めていこうと思うほどに世界は輝いてもいなかった。

とてつもなくバカで不器用だ。
それでも家を出られたのは、私のとぼしい社会生活の中で、数少ない友達や年上の女の先輩を観察して、「結婚」しか親の阻止を受けず穏便に家を出る手段は無いなと計算する事が出来たから。たいして女として取り柄の無い自分は一日でも若いうちに結婚相手を探さないと手遅れになると判断出来ていたから。

結婚という形で誰かの人生を私の脱出劇の巻き添えにするのだとしたら、その奇特な人は不幸にしない努力をすること。
私を幸せにしてくれと思ったことは無い。私がその人を幸せにするために精一杯やると決めたこと。そんな事は相手には伝えてない。自分の決意にすぎない。
幸いな事に、私は結婚生活を無理してはいない。すごくワガママ。
親と暮らすより、男と暮らす方が断然ラクで、楽しく、やっと私は自分を受け入れられた。

そして、私も娘を2人産み母になり、社会に疎外感を抱いたままの子供ではいられなくなり、守る者のために強くなれた。

過ぎてみて思うのは自分としてどこに行けばいいのか分からなくても「役割」を生きれば良かったので迷いはなかった。
ならば親の望む「娘」としての役割を生きたらもったラクだったのか?とも思うけれど、その時の私には無理だった。

「母親」や「妻」という役割の中でちゃんと生活者として生きていくことを学んだ。
その私の日々は親にしたら、やっとあの子も「いい子」に成れた。良かったねだった。

よくドラマとかで、かつては荒れていたどら息子とか、娘が家族を持って改心したねのパターンですね。そこまでは私にも無理はなかったので、親の反応も気にならなかった。

その後、私は考えた末に教育ママになり、子供のお受験のためにパートで働く選択をする。この時も充分に考えたつもりだった。それまでの自分なら会社で働くのは無理なこと
だったけれど、夫だけに負荷をかけたくなかったし、子供の教育費を捻出したいのは私だったから。

過去の経験から、集団に入ると浮く自分。でももう私は充分に大人で目的もあり、たいていの人が出来ることが自分に出来ないはずはないと、今の自分なら出来るはずと自負もあった。

環境は大事だと思っていた。小さい職場で、自分の人から浮いてしまう要素がすぐバレるより、沢山の人がいる職場で、目立たないように人の中に紛れようと思った。
ほら、隠れるなら、人の多い都会の方がいいと同じ発想。
後に夏瀬杏子先生が白い羊の群れの中に黒い羊が一匹いると目立つ。とお書きになっているのを読んで、必死で紛れて隠れようとしているのに、そもそも白と黒じゃ紛れようがないなと思った。

パートで働き始めて、すごく全方位的に自分としては気をつかい。
本音は語らず、自分は晒さず、大人としていい人に成りたいと本気で思っていたんだわ。
その本心は単純にもっと親に認めて欲しい、褒めてほしいだった。
それは、40前後の大人の女である私が本気で求めていたこと。
生まれてから結婚するまで、親にとっていい子でいた事のなかった自分は、これからは
親にとってのいい子でいようと、もう大人だし、人の子の親にもなれたし出来るはずと
本気で思っていたのでした。

それが、無理と知るまでに10年以上の歳月を必要としたのは、私の司禄星中殺のせいでしょう。
ラプンツェルの塔はその囚われた想いをいい加減捨てろという警告として受け止めた。