こだわりのゆくえ

私は算命学で言うところの水剋火(水は火を消し止める)と土剋水(土は水を濁し、水をせき止める)の相剋(そうこく)を持っています。加えて調舒星中殺のため、こだわりが強い、完璧主義的な自分を自分で持て余すと言う時期がかなりありました。とても暮らしずらい訳です。生月中殺は自分で自分にアレルギーと言われた事があります。
本当にそのとおりの時間を通過しました。あんまり、他者は関係ない。自分が自分を上手く扱えない、その事に更にいらだつ。私は日干庚なので、白黒きっちり、はっきりしろ!
という気も強いので、自分自身への強烈なアレルギー反応の濃度をいかにして薄めるのかが課題でした。
まぁ、今もそうです。

自分はそんなに完璧な人間なんかじゃないのですよ。ささいな失敗やミスを
自分がいつまでも忘れられない、ぬぐえなかったり。
たとえば、私は神社仏閣歩きが好きですが、今、御朱印帳が流行ってますね。私が御朱印帳を始めたら、旅先で持って行くのを忘れたら、もう忘れた自分を許せずその旅そのものを楽しめなくなるような、些末なことにとらわれて、本来の目的を失う、全てをぶち壊しにするような面倒くさいこだわりが自分の中にたくさんあって、そのこだわりが生きることを楽しめなくしている。こだわりをつきつめて、才能を開花される方もいるとは思います。

いつも「こだわり」について考える時、作家の向田邦子の『手袋をさがす』という大好きなエッセイを思いだします。
気にいった手袋に出会えず、妥協の手袋も出来ず、ひと冬手袋なしで過ごすという強い自分の「こだわり」とどう付き合うか、どう生きていくかについて語られている内容です。
このエッセイを読んだからと言ってたやすく、「こだわり」にとらわれている自分から脱出が出来た訳ではない。そんな簡単ではないけれど、
20代の私は何度もこのエッセイを読み返しました。

そして、どうでもいい自分の本筋ではない、ささいと思えるような「こだわり」は捨てようと努めた。訓練というほど大げさでもないけれど練習を重ねた。ささいな「こだわり」を捨てても、本当に捨てられない「こだわり」は自然と自分に残るだろうと思っていた。
だからこそ、どうでもいいものは捨てられる。捨てて身軽になろうと。
自分をがんじがらめにしていた、いくつもの小さな「こだわり」を捨て、自分を許し、
仕方ないなを継続していくうちに、全く赤の他人の男性と家族に成り、人の子の親になり、子供を育てる日々で、私の鈍感力は向上した。

何を選ぶかは、自分に委ねられている。次女は私と同じように今、まだ「こだわり」の強い世界の中で生きていて、長女や、父親から呆れられている。他者に言われたくらいで解き放たれるほど、たやすくない事を経験から知る母である私は、何も言わない。
付き合える範囲で彼女の「こだわり」を見守る。
彼女の「こだわり」のゆくえは彼女に委ねるしかないから。