当たり前に有るモノ

自分をどう活かすのか、どう用いていきたいのか、その目的や用途が大切だなと自分を省みて痛感しています。

目的や用途によって、自分も自分の持っているモノも使い方が違ってきます。

自分の持っているモノを漠然と知るだけではなく、何に使うかでその特性や、能力の活かし方にふさわしい在り方、場所、状況や立場が異なってきますよね。

例えば、雨の時に、長傘なのか、折りたたみ傘か、レインコートなのか、その時何を持っているかは意味があるし、その使い方や利便性も違いますね。

雨がしのげればいいじゃないか、ではなくて、何を持っていて、どんな特性があるのかの当たり前の重要性を強く意識するようになったのは、クレアボヤンスを始めてからです。

その時に透視して見えたものが、長傘ではなく、折りたたみ傘であることのメッセージや意味が大事だからです。

私たちの長所や特性も武器に例えるなら、離れているところから狙える特性があるのか?
接近戦で有効な特性があるのか?弓なのか、刀なのか、銃なのかというその武器の特性を知る、持ち物の個性を知るって大事ですよね。

そして、私も含め、みんな自分の特性や武器が自分では、なかなかわからないんです。
そして、こんなモノが使える武器なの?
という部分もあります。

武器という言葉から連想されるのは、強さとか破壊力かもしれませんが、「やわらかさ」や
「爽やかさ」も使える、強い持ちモノだったりします。
自分にとって当たり前過ぎて、特別とも思っていないことが、他者からすれば、びっくりする能力や特技なんですよね。

私はよく”自分で自分を持て余す”という表現をしますが、これは、自分が今より陰転していた頃の体感です。自分の扱い方や用い方がわからない苛立ちや不甲斐なさは、その濃度は変化していくにしても、生きてる限りついてまわるのでしょう。

そして、占って、自分のポテンシャルについて知って、励まされたり、喜んだりしても、時間経過の中で、持っているはずのものを一向に上手く使えてない、こんな可能性があると言われたけれど自分では、有ると感じられなくて、さらに自分がモヤモヤすることもありますよね。

自分に期待するのが苦手な人もいます。
人に褒められて、期待されて、認められて伸びる人もいるし、攻撃されることで、対抗することで、タフに成長する人もいるし、我関せずで、マイペースで聞き流すことがいい人もいますし、護られることが大事な人や環境からの影響が強く出る人もいます。

でも、自分のポテンシャルは実は自分には、キラキラしては見えないからこそ、他人の魅力や可能性が余計にきらめいて見えてしまうのかもしれません。

つい最近、いつもお奇麗な女性に美容のお話しを聞いた時、すごく興味を持って工夫や積み重ねをされて道具や環境を整えていると知り、興味を持てることはそれだけで才能として育っていくんだなぁという当たり前のことを思い知らされました。
私には到底出来ない日々の努力をされていて、びっくりしたんですが、それがご本人には当たり前で、能力とは捉えていない様子でした。楽しいからやってしまう工夫ですね。
でも、そういう世界をひとつでも持っているかいないかで、実は人生における差は大きいのではと思っています。

才能の始まりは、キラキラではなく、自分にとって当たり前すぎる簡単に出来ることから始まっているんですね。
彼女がらくらく出来るお化粧の技は、私には身に付かないなぁとお話しを聞いてる時は、ちょっと悲しい気分になるんですよね。私にはキラキラして見えてしまう。でもそれは私には気の迷い的な一瞬のキラキラで、自分の日常からは生まれて来ないものなんです。
私が夢中になって当たり前にやれることは、お化粧ではないんですよね。とても残念ですが。

私の武器はきっと自分にとっては、えっそんなことか?みたいな所から始めて行くすごく自然な当たり前の中にあるんだよなぁと、最近改めて痛感しています。
実は頑張らなくても当たり前にやれていることが、何よりの才能です。
他人に対してこんなことも出来ないのか?と思うモノはあなたの才能の一部です!
それを、何に用いて行くか、人生の目的の中でどう活かしていくかが大事ですし、当たり前に有るモノは、認識さえ出来れば、出し惜しみなく使えるはずなんですよね。