子供だからっていじっていい訳じゃない!


調舒星は好き嫌いで生きてしまいがちですが、人生はそれでは済まないことは多々ある。

そして、調舒星的リアクションを嫌う牽牛星に、

いや、牽牛星以外にだって、あなたを好きなんだから許してという言動は避けたいと思っています。

きっと、許される場面と許されない場面がある。

そして、私の中にも、人に反応して、ツッコミを入れてしまう調舒成分はしっかりとある。
でも、私は自分の子育て中は、子供たちをいじらない努力はした。

私は生家で車騎・牽牛的な頑張りを当たり前とする家族に、
車騎・牽牛的に頑張ることを求められ続けて、
同じようには頑張れないことを叱られて育った。

ものごころがついてから、
のんびりそのままでいいと言われたことはない気がする。
それは、そういう文言に自分があまりに敏感で、
必死に拾い集めていたのではないかとういう疑惑もある。

私は射手月なので、
好きなものに夢中でそれ以外は全部ノーみたいな子供だったのも本当。
子供時代にTVゲームなどが無くて良かったと思う。

いまでも強烈に覚えているのは(調舒星は恨みがましい)
七五三の時、七歳です。
綺麗な着物を着せられて、みんなにおめでとうと言ってもらえて
その晴れの日が素直に嬉しく楽しかったのに、
私は上機嫌だったのに
親に「調子に乗るな!」と怒られたこと。

なんで、そんなにお調子者なんだと言われた。
子供ごころに怒られたと感じたけれど、
今ならいじられてたのかもと思えるのです。

子供ごころに楽しむのは悪だと言われた気分になって、とてつもなく傷ついた。
素直な喜びにノーと言われた。
だって7歳ですよ。と未だに思うな。

それから、意地でもお調子者なんて言わせないってバカな決意をしてしまった。
だから、素直に反応する自分は、それ以来ずっと居心地悪く、物事を斜めに見る癖が
ついた気がしています。

ずっと親に対しては、愛されているのは知ってます。有難い。
でもその愛し方は正しいのかって言う問いかけが私にはある。

愛に正しいとか間違っているがそもそもあるのかかしら?とか
間違っている時点で、もう愛ではないのではないか?とか
いろいろ考えてきたんですが、
愛って美しくて素晴らしく気高いものなのと言うより
愚かしくてバカバカしくて間違っていても
愛と呼べるものはあるのでは
とも思う。
だって愛されていたから。

それは感じている。

でも、厳しい愛だ。
厳しさからしか育まれない愛もあるしなとも思える。

それでも、
愛されていても生き苦しいとか
素直に笑えないは苦しい!
気をゆるすと調子に乗ってると
ひっこめられてしまうような不安定な愛情。
常に改善を求められのもシンドイ。

そして、大人になって、いや大人になろうとして、
親の求めている私になるべく、努力して、
わかりやすいしあわせを示して見せても、私はいじられていた。
すぐ、過去の親が認めない私の話を引き合いにだされた。

私はお笑いとかジョークは苦手。
笑いながら、ジョークだからと人の痛みをいじっていいわけはないから。

そうやって積もり積もったものが、私のコップをいっぱいにして
最後の一滴が入り込んできた時に、溢れ返して、限界に達して、
私は、私をいじれると思っている人ともう話したくなくなり、
電話が来ても出られなくなり、
私の世界で、私を一番苦しめていたものを捨てられた。

子供だからと
愛という名のもとに、好きにいじっていいわけではないと
きっとこれからも、何度でも言いたい!

そして親の期待に応えたいと真面目に努力していたのは玉堂星大運の頃だったし
もう限界と、始末がついたのは玉堂星が年運の年だった。
調舒VS玉堂のテーマをそのまま生きたと感じている。

こんなことをわざわざ書いているのは
書くことで、自分の中から切り離したいものがクリアになるから。

そして、世界のどこかで、
居場所を求めてさすらっていたかつての私のようなあなたに
求められることやすべきことに頑張るより
自分自身を喜ばすことを大切にして欲しいと願うから!
リラックスして生きていいんだよね!