宿命中殺

昨日、司禄星を持ちながら備えられないと書いてしまいましたが
私は司禄星中殺なので、備えられない、積み重ねられない、継続できない司禄星です。

算命学を学んでいて、気が滅入るのは、宿命中殺に対する表現の見も蓋もなさでしょうか。
悪いことしか書いてないぞっというモノも目に入って来ます。

それが、ツラくて算命学から離れて行く人もいるでしょう。
私もヤレヤレと思うのですが、根が天の邪鬼なので、
これはどこに視点を置いて言われているのか?
何を大切なこととした考え方なのか?が
気になります。

高校の時の歴史の先生が、教科書は勝者の物語だと教えてくれた、敗者には敗者の物語があり、勝者は都合の悪いことを闇に頬むる。邪魔者は消せ!だよと。
年号を覚えるだけじゃつまらない、大きな物語の流れを読もうと!
そこから歴史はますます好きになりました。

表から見たらそう見えることが、
裏から見たら、横からみたらと視点の置き方で異なるのは当然だよねと思っています。

私は中殺を悪いモノとは捉えていません。
扱いが難しいモノとは思っている。

でも、まだまだ、宿命中殺者は地に足がついてないからその人生はダメだとか。
この命式は中殺じゃなければいい命式なのに!
という声を現場で耳にしたりしました。
そして、それを言ってるご本人が中殺をお持ちだったりするのです。

私も中殺を持たなくて、宿命中殺という概念を理解している方から
そのルーズさが許せないと言われたことがあります。

宿命中殺者には、ルーズというかザルみたいに抜けていってしまう部分と
曖昧さが許せなくてこだわってしまう部分があります。
そんな矛盾は、中殺を持たない人でも誰でもあるはずだけど、
宿命中殺者はその振幅の幅が広いのと、意図せずに目立ってしまう所があるのでしょう。

宿命中殺者にとって自然な振る舞いが社会や仕事の場では不自然に映るのでしょう。

やはり偏りは目立つのです。
それは宿命中殺者だけではなく、比和や律音・天剋地沖の人にも見受けられます。

自分の自然を貫き通して世の中の不自然で生きるのか
自分にとっては不自然だけど世の中の自然に擬態して生きるのか
宿命中殺者が悩むのは仕方ないことです。

でも病まないこと
健やかに生きることが大切だと私は思っています。
そして世の中の自然は変遷します。

算命学では中庸が良しとされています。
中庸については知るか知らないかでは知ることが大切です。
それを体現して生きられるかはまた別なのかなと
今は考えています。

人間は自分に無い気を補ってやりきれる程強くないとも思っています。
瞬間的にはやれるし
短期決戦もやりきれるとは思います。
やらなくてはいけない時もある。

でも長い人生をそれで生ききるのは勝ち目の無い戦いで
やられたり、病んでしまう。

だから、まず自分の持ち物の沢山ある要素
使い勝手の良いモノから使って
自分にとっての不自然ではないやり方を考えて行くことは
これからの世界にはますます必要だと思っています。

私は自分と同じ宿命中殺者の方に
ひとりひとりの持つ魅力や個性を
見つめ直して「私」として輝いたり、和んだりする
ためにこれからいろいろとお届けして行きたいと
今この時に改めて思います。

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