ぼんやりとした時間。
2月にZOOMにて子丑天中殺体感シェア会&お疲れ様会を催して、天中殺期間が明けてすぐの感じを参加の皆様と吐き出すような時間だったのですが、今頃になってようやく、少し時間を置いて、シンドカッタぞとツラかったぞと、落ち着いて言える気がします。
それぞれの体感なので、正解はないと思うのですが、
宿命中殺者はもともと中殺を持っているから、耐性があるから天中殺期間はそんなに響かないのでは?
と聞いたり読んだりしていましたが、天中殺という概念を学んで初めて、実際その期間を生きてみて、情報として知っているから、大丈夫な訳ではないのですね。知ることと体感していくことは違う。
そして私は2O22年は大運の切り替わりで2020年、21年の天中殺期間は接運でもあり、基本的にいろいろ要素が重なるのはよろしくないのですね。
大運の5旬目がおわり、6旬目に入りました。
私の5旬目は貫索星・天恍星大運で、月支に害で、年支に破でした。こころが苦しい10年だった。テーマが自分で、自分について考えるしかない運気なのに、ついてきた従星はここではない場所を探す天恍星で、それは彷徨うなぁと今なら言える。
このままだと心が病みそうで占いに行こうと決めたのは、正しい直感だったと思う。
そして、私はこの10年で、自分のおもうようにはならないという現実を沢山、痛感して
試行錯誤して、それ以前の私では受け入れられなかったことを、受け入れていくしかないとか、流されてみるしかないとかを学んだ。
知るというのでなく、分かるしかなかったし、分かったら、そうせざるを得ないという流れの中で、硬くて小さな自分の器を少しづづ広げていくことを試みるしかなかった。
器を広げるって、簡単に言うけれど、自分の一部を少しづづ引っ張ったり、伸ばしたりする痛みや軋みを伴わないと、硬くて小さい自分は広がったり、伸びたりなんか出来ないんだと身に染みることばかりだった。
他人の言うことを受け入れてみたり、それまでの自分では選ばない方をあえて選んで、獲得していくというよりは、来たものを受け入れていくという在り方を生きてみて、いまここで
占いを通じて私に出来ることをやり続けようとしている自分がいます。
害は大運で日支にも月支にも年支にも来たら、多い人なら人生で30年どこかが害です。
でも、害は病むだけでない、害の効用みたいなものを、その時間を生きてみて感じています。
私は3旬目に、年支が害だった。
でもその頃は、社会性を自分に求めていなくて、日支が半会で、家庭のことで盛り上がっていたし、内側で生きたいという、外の事は関係ないという意識だったので、年支の害に苦しんだりした実感がない。
害を現実と気持ちの齟齬と読むなら、はじめから期待していない場合は影響は少ないのかもしれません。
だから、どんどん自分でストレスを抱え込まないように、無理をしないで、流されていく
流されて委ねて体力失わないようにしていくのは、対処法としてはいいのではないかと思っています。
流されて、思うにまかせないで、得るものあるのが人生の不思議です。
けっこう疲れたなぁと思うし、この2年で老けた自分を感じるけれど、まだ、このまま老け込んで行くのもなと、思えるくらいには回復中なので、もう少し、ぼんやりとした時間を
大切にしながら、やりたいことはやって行こうと思っています。
GW中に鑑定の現場で沢山の皆様と出会えることを楽しみにしています!