鞘を作るからオブジェへ

 十代の頃から二十代のはじめに読んだ向田邦子さんの「手袋をさがす」というエッセイが大好きでした。

「夜中の薔薇」の中に収められています。このエッセイに励まされた女性は沢山いるのではないでしょうか。

気に入った手袋が見つからなかったから、ひと冬、手袋をはめないで、やせガマンして過ごすような資質では女性としては、幸せになれないかもしれない、でも自分は自分のその資質でほどほどのモノで我慢せず、自分の求めるところに進もうと決意する内容です。

こだわり強くわが道を。

私も迷いながら、自分にフィットする手袋を探したいと試行錯誤して生きています。

でも、最近はそれは探し出すだけではなく、手作りしてもいいんじゃないかと思うようになっている自分がいます。

向田邦子さんの「さがす」の中には自分で生み出すとか、手作りするという意味も含まれていたのでしょうが、若い頃の私はそれは文字通り、外側に探しに行くもので、

どこかに売られているとか、せいぜいあつらえるものとしてしか考えられなかったのです。

でも、今は売りモノを探しまくるより、

誰かが作った規制のモノではなく、

自分で作ったり、アレンジしたり、出来るんだなと生きる面白さを感じます。

私は手袋じゃなくて、自分の刀を納める鞘を探して試行錯誤して、

時折は自分はただの鉄の塊の鈍器かと思う時もあるけど。

自分を納める鞘を作ることにずっと興味があった。

まぁ、命式に火の無い私は、名刀では無い。鉄の塊でオブジェでもいいかもと思う。

でも、調舒星中殺として、相手の言葉への反応の先で、相手を論破することを楽しんでいたどうしょうもない若い頃があって、いつかその自分の放った言葉はブーメランとして自分に戻って来て、自分を切りつけると身をもって学び、その場で言葉でやりこめても、結果は周囲に敵を作り、敵でない人でも緊張を生むだけて、自分が得るものは何も無かった。

触らね神にたたりなしみたいな存在になってはいけないのだよね。

自分のエネルギーや感情を無駄に使っていただけだ。

それでも、私は庚なので、白黒ハッキリが本質です。人に対して刃にならないための刃を納めておく鞘が欲しかったのですが、最近はますます、努力しても名刀ではないのなら、オブジェや、人と人をつなぐ鉄製の橋や、音を奏でる鍾であるとか、自分に求められるものも、しっかりと考えると、もっと違う用途や役割があるのかも知れないと思う。

持ち合させてないものを探すより、頑張って刀になろうとするより、なれたとしても普通の刀で、名刀には太刀打ちできない。

もっと違う庚・鉄の活かしかた、用途を考えるのは、楽しいし、有意義です。

自分の形を外側の要請で固めていく生き方もあるし、その有効性もあるでしょう。

それが、有効でない人は、自分の求める形を自分でイメージして欲しい。

誰もが広い世界で、マルチタスクやゼネラリストで生きられる訳ではないです。

自分の「これでしかない」、いや「こんなもんか」からしか始めて行くしかないですからね。

でも、「こんなもん」を大事にすることからしか始まらないので、自分の持ちモノ、持ち味、特性をどう使っていくかを考えていくしかないのです。どうやって行こうと、どこに行こうとしているかもとても大事です。

北を目指すかの、南へ行くのかでは、旅支度も違ってくるので。

私はブログタイトルの所に、【誰でもない「私」を生きよう 自分を知ることはあなたを強くする】と載せています。自分をどう活かすのか、どう用いていきたいのかが、その用途が大切です。用途によって、自分も自分の持っているモノも使い方が違ってきますからね!

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