シンプルな喜び




やるたいこがあるのに、ずっと先延ばしにしている。始められないことに対して自分の中で言い訳をし続けている。それは何故だろうか?という自分自身への問いかけの答えを探していたけれど、何だか今日、そこがスッキリとした。

約5年も前にブログの記事「過程を楽しむ」の中で陶芸教室の体験に行ったことを書いています。今にも本格的に始める勢いで書いたのを覚えています。

でも、私はその時の自分の欲望を裏切って、諌めて、いつか行こうと思いながら、コロナだからとか、いま他に忙しいからと、あれこれと言い訳をして、今日まで生きてしまった。

どうして、やりたいことをやれないんだろうか?という自分への問いかけもあり、昨年は
ジュリア・キャメロン著「ずっとやりたかったことを、やりなさい」という本をツールとして、12週間の自己対話にお仲間を集ってチャレンジして、ようやっと昨年の冬至の日前日に、不思議と覚悟もなく、ふらっと陶芸教室に申込みが出来た。

それは、いま思うと自分の中で準備が出来たということかもしれないし、機が熟したとも言えるのかもしれない。

そして今日、初回のレッスン日を迎えて、家から30分~40分歩いて教室に行って来ました。歩いて通えるというのも、私には魅力のひとつだった。定期的に歩いて通える場を持つは、これからの健康維持のためにもいいかなと。
そして何となく歩くには、家の近くの風景には飽きてきていたので、目的地があるのもいい感じだなと。

ああ、こんなシンプルな喜びに、まだ出会えるんだということを、味わえた。
だからと言って、今日まで始められなかった自分を責めたりもしない。
むしろ、誉めてあげたい。
まだまだ始められることがあるよと。そして動けたねと。

5年以上前に会った体験参加の私を、先生は覚えているはずもなく、初めましてで窯場から案内をしてくれて、「これからどんな物を作りたいとか希望がありますか?」と聞かれたが、これが無いんですね。作品を作りたいという欲望より、粘土に触れたいという欲望で始めたいんですと答えると、「いいですね。粘土に触れてると無心に成れていいという方
けっこういますよ」と。

そこから始めていけばいいと言ってくださり、私がとても不器用であることを伝えると
「失敗もレッスンのうちです」と返され、この言葉にシビレてしまった。
うわー、すごい面白い世界の扉を開こうとしているのかもしれないと。

10回粘土を捏ねて、ろくろをひいて、釜で焼けるのは4つぐらいが上等と思ってくださいと。お試し体験の時は、作品として、出来上がりまで完成させる事が必要でしたが、教室で学び始めるということは、完成までのプロセスを学ぶことですと言われた。

ずっと自分は、飽きっぽい中途半端な、訓練や練習の嫌いな、自己像で生きてきたけれど、
2024年の流れは、それを書き換えていく時間だったような気がしている。

私は意外と、自分がやると決めたことは、外からの干渉を受けずに、黙々とやり続けてきたことが、幾つかあるなと、実感する体験を去年は、してきたからだ。
自分の中のあるものを実感することが下手だから、無いと感じやすかっただけだということを他者との触れ合いの中で示唆された。

昨年からの流れは、自分が何に喜びを感じるのかを、教えてくれる道のりだった。

そしてもうひとつ、私はいまでは旅が大好きだけど、自分の居場所を得られるまでは、旅なんて好きでも嫌いでもない。自分とは関係のないものでしかなかったのだ。
生きる場を得て初めて、帰っていける安心安全な場を実感出来て、初めて外へ、未知へ旅だてる力を得た。

それと同じように、自分がここから先、何をやっていきたいかという迷いが晴れてきたから、ただ趣味という、シンプルな喜びを得ることを自分に許可できたのかもしれないと気がついた。

本当のテーマが見えてきたからこそ、遊べるし、無心になれる。
もう不安は拭えたのかもしれないね。という粘土に触れるシンプルな喜びと共に、しみじみとした喜びを感じられる始まりの日と成れた。

皆さまにも、それぞれの始まりがある2025年であることを、願っています。
諦めず求めて行けますように。