第3回目を開催するにあたって、これまでのワークショップを通して、感じたり考えたことを共有したいなと思います。
私は、結果より、プロセスに何が起きているのかを見ることに、興味がある気がしています。
今回、心に引っかかっていることに、正解を求めいる訳ではないんだなと、私自身は気がつかされました。
私にとっては、考える=答えを出すことではない。
自分の中にあるいろいろな問いを、参加者の皆さまと見てみたいが強いです。
でも、「何故?」を問い詰めていくのではなく、このワークショップでは、正解ではなく、それぞれの参加者が、自分の「感覚」をつかめたらそれでいいのではないかと、思っています。
人って、自分の中にある回路が、他者の中にもあると思い込みやすいなということは、人との対話やフリートーク会を通して改めて、実感しています。
正解まで走らず、自分の感覚をつかんで、まだ言葉にならない、自分の中にある「未確定」なものに耐えられるなら、それでいい気がします。
わからないものをそのまま、自分の中に置いておける。
すぐ、答えをださなくていいと自分を許していく感じでしょうか。
私もずっと、モヤモヤするはイヤだと思っていました。
そういう感情は排除したいと望んでいた。
でも、今回の始まりは、そのモヤモヤは何だろう?と問いを立てて、観察したり、
検証してみようということからです。
言葉にしきれなくても、感覚として持っていられるのは大事だと思うんです。
言葉にならない=なかったことではないし、
スルーできないから、モヤモヤするという自分の違和感を否定しないことを大事にしたいんですよね。
なんか引っかかるですよね。
なんか違和感はあるんですという、のを大事にしてみましょうという、場を持ちたいなと思っています。
否定されず、急かされず、正解はいらないところから、始めていきましょうという感じです。
自分ひとりでは、なかなか自分との対話って、難しいから、誰かに軽く映してもらう。
参加者同士で映し合うことで、見えてくるものはある。
今の私の見つめ方以外にも、こういう見つめ方があるんだということを、自分の中に置けるといいなと、私はいつも自分に求めています。
それが、ひとりでは怖いときもあるから、ちょっと違う角度で眺めてみようかと思える安心な場を参加者の方と共に、生み出せたらいいなと願っています。
いや、その前に、自分のものの見方や、感じ方そのものを、安心して一緒に眺めてみられる場が私は欲しいんだなと気がつきました。
私は家族問題に傷ついて、でもその構造を理解することや、相手を観察することは、かなり努めてきました。それでも、家族だからこそ、理解とは別に傷つくんだなと思っているし、自分が生きやすいように、切り分けを学んでも、切り分けられたからといって、平気になるわけでもないとか、パターンの中で心ない言葉が飛んできたら、やはり気落ちするんですよね。
相手の自分への評価を変えるために、自分を証明し続けるゲームには参加しないと降りても、
傷ついてないわけではないと認めてあげるは、必要だなと感じています。
この人はなぜこうなんだろう?を解明したいもあったけれど、もうそれを自分のテーマにする必要もないもわかっている。
それでも、どこかにこの人と、もっとわかりあえる可能性があったんじゃないかという期待も残念ながら、捨てきれない。
本当には残念なのに、残念じゃないと思い込む必要もないはず。
矛盾するような、感情をいくつも同時にもちながら、手放すわけでもなく、持ち続けながら、自分でいるって、結構タフだなと思うのですが、それが、私が自分を否定しないということかなと、このワークショップを通じて、いま言葉に出来ることかなと思います。
感情も、感覚も消さずに、幾つもの気持ちを同時に、私の心に置いておこうと思えただけで、わたしはかなりスッキリしたんですよねという、途中経過の共有でした。
お申込みはこちら

.png)