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最近改めて、自分の中での些細な「イヤ」って、実はかなり精密な基準なのかもしれないと思い直す機会があった。
自分では好き嫌いはわかるけれど、「好き」という言葉だけでは説明しきれないものをたくさん抱えていた。
もっと大胆に言ってしまうと、自分はそんなにこだわりが強いと思っていなかった。
でも、そうでもないのかもと気がついてきた感じだ。
例えば服でも、お茶でも、食べ物でも、自分で好きに選べるものに対して、これが好きとは言い切れないんだけれど、「これはイヤ」「これはちょっと違う」はかなり細かくあると思う。でもそれを「こだわり」というのもなんか違うと思っていたのだ。
私にとってこだわりってもっと明確に「私はこれが好き」「これでなければ嫌だ」と言えるものという認識だったからだ。
でも「イヤ」がかなり強い情報であることは知っていたし、私の「イヤ」は思っていたよりずっと細かかった。
そして「好き」を整数として考えるなら、私は整数は少ないんだけど、実はかなり多くの小数点以下の判断基準を抱えているのだ。それを足し算したら、大きな整数になってしまうなという気づきでもある。
誰だって好き嫌いはある。でも「好き」や「こだわり」とまで認識できない、小さな基準が実はとても、自分という人間をかたどっているらしいと思えるのだ。
日常の中で、自分の小さな基準なんて言語化せず、単なる反応として扱っていた。
説明する必要もない細かい判断が、実は自分を知る材料として、ものすごく豊富にあったということに、気がついたのだ。
小数点を自分の基準として普通に使っていたのに、小数点のものは、整数でないから、ないことにして、自分は「好き」が弱いとか、たいした「こだわり」もないよなと認識していたに過ぎなかった。
自分は反応して判断するまではわかっていたんだけれど、反応できるだけの小さな基準値をたくさん持っていたみたいだと、わかってきた。
言葉にしてこなかっただけで、「なんか違う」とか、「なんとなくいい」とか。誰でもあるはずだ。日常の中で既にみんなそうやって判断して暮らしているはずだ。
私はこれが好きですは言えなくても、私にはこれらが合うとか合わないとか、かなり正確に判断しているのでは?
そして判断するには基準が必要で、例えば私はお茶の味わいについて誰にも聞かれないから言わないだけで、実は「十分なお茶の濃さや味わい」への基準値は既にあるのだ。
それを考えるでもなく、あっこのお茶薄いなとか、渋すぎるとかやっているわけだから。
そこを「こだわり」とは、やはり言い難い気がするけれど、そういう自己基準が無数にあるなら、そこを見ていくと、なんか共通項が見えてきて、それを一言で言えたりしたら「こだわり」なのかもしれないなということ。
でも「なんか違う」とか「なんかイヤ」に正確に反応していることが、既にかなり高度な自己基準値で、その小さな基準がとても私を物語ってしまうんだなと、実感しているところです。
